WAKE

チェンジ JAPAN

新しい 日本 作ろう



 



  教授、 第二次攻撃隊を出します。 

。。文ソク さん , “ 第二次攻撃隊 ” を 出しましょう!


[ 写 真 ]   ジェイムス教授と私。 私が、初めて、ニューヨークへ行った頃、教授から、物理の手ほどきを受けました。そして、導いて下さった。 私は、このホームぺ-ジに 繰り返して、「 手を差し伸べてくれた、 導いてくれた。」と書いています。 それは、ニューヨークでも、体験した事でした。 教授は、研究者であると共に、学生にとっては、素晴らしい 指導者でありました。 私が、物理学の協会員になって行ったのも、教授に導かれて であります。 アメリカの大学では、先生方は、教える事に一生懸命です。その事も、ニューヨークへ行ってから、体験して行きました。   写真は、名誉協会の 晩餐会に、ジェイムス教授と共に出席した時に撮ったものです。



 

 



[ 解 説 ]    自由民権運動と言うのが有りました。 土佐の藩士、後藤象二郎や板垣退助たちが、“国会の開設”や “憲法の制定”を求めて起した政治運動で有りました。 その辺(あた)りから始まって、 国会で 普通選挙法(1925年)が成立し、一般成人男子に選挙権が与えられたのは、それから50年も経った後だった。さらに、婦人参政権(成人女性が、選挙に投票に行ける権利)が与えられたのは、戦後(1946年)になって、新憲法が制定してからであります。それまでは、日本の女性には、選挙権は無かった訳です。(選挙になっても、女性は、投票所へ行って 投票する事は出来なかった。)板垣や後藤が始めたの時から換算すれば、実に 70年も経った後だった。 -----  あなた方は、多くの人が、選挙になっても投票に行かない けども、この普通選挙と言うのは、それほどの、 先人の苦労と、 血と汗の上に成り立っています。

    私が、一人で始めた この入試廃止運動も、同じ経路をたどって行きます。この運動が成熟して、日本の国が入試廃止に向って まい進し、 突き進んでいくのは、50年先の話です。そして、それを 私が見る事は有りません。 思えば、この 入試廃止の事を心の中に描く様になったのは、30代の頃で、その頃は、ニューヨークに 居ました。 そして、初めて、チラシを作ったのは、20年程 前の事です。 特に、この10年間は、やりに やり抜き ました。 選挙も3回出ました。自分の持てる 気力 体力そして英知を振り絞って、限りを尽くして運動を展開して行きました。 そして、その後、少し 休んでおりました。これから、第二弾を始めます。

    人は、得手(えて)して、初心を忘れて行くものです。このページは、文ソクが自分自身を 戒(いま)め 励(はげ)まし、そして鼓舞(こぶ)して 初心を忘れる事無く、入試廃止運動に突き進んで行く様にと書いた章です。  ワシも人間です。やる気が無くなったり、怠惰(たいだ)になったり、意気消沈したりする事が有ます。 その時は、是非(ぜひ)、この章を見て、自分で、自分ケツを けっつり 飛ばして、「 文ソク、 行け やれ~~ 」と、その為の章です。




明日に向って:     昔、黒澤明監督の映画に、「トラ トラ トラ」言うのが有りました。日本帝国海軍の、真珠湾攻撃を題材にした映画です。その映画の中で、第一次攻撃隊が、真珠湾の奇襲攻撃に成功し、旗艦 空母「赤城」に帰艦し始めた時、作戦参謀が、司令長官に向って、「長官、 攻撃は反復しなければ なりません。 効果が有りません。 第二次攻撃隊を出しましょう。」と進言した。   そうです、文ソクは、過去10年間、広島市内で入試廃止を訴えて、散々に活動しました。選挙も3回出ました。たった一人で、 我一人の選挙だった。 選挙の手続きからポスター貼り、そして、演説して歩く。。。 全て一人でやりました。 そして、散々に活動しました。その結果、自転車を押して、「入試廃止と叫んでいる 中村と言うのが居る」と言う のは、 広島市内で、多くの人が知る様になりました。第一次攻撃は、終了した。これから、第二次攻撃隊を出動させます。

    これからは、今までとは、違う事をやります。今までの様に、手弁当主義で、一人で自転車を押して“入試廃止”と叫んでいても、前に向いて進んで行きません。これからは、拡大して行こうと考えております。 東京にも行ってみようと思います。出来れば、瀬戸内から、大阪 京都を回って、そして、東海道を通って東京へ行ければ一番良い。又、韓国や印度へも行って、大学を回ってみようと考えています。米国のフロリダへ行った時も、カリフォルニアへ行った時も、韓国の留学生達に会いました。彼らは、私が広島でやっている入試廃止運動に大変興味を示しておりました。「韓国にはいつ来るのか。」とか、「是非、Uチューブ に流してください。」と言われました。

    私は、ニューヨークに居る頃、「日本に帰って入試廃止運動を広める。日本が入試を廃止するようになれば、それは、ドミノの様に、韓国へ伝わり、中国や印度へと伝わっていく。そして、アジアから入試が無くなり、私が思う大学教育がアジア全体に広がって行く。 そして、そのアジアが、世界人類にどれだけ貢献するか。」とそんな事を心に 描いておりました。そして、「まずは 日本だ。」と、その意気込みで、 広島で、10年間、入試廃止運動をやって来ました。 しかし、何も起きなかった。これから、10年間、同じ事を繰り返しても何も起きない様に思います。 ギアをチェンジしないといけません。 考えてみれば、入試廃止と言って、日本から始まらなくても良い訳です。韓国から始まっても良い訳です。その意味で、韓国や印度へも 行ってみようと考えております。  

    日本では、私が入試廃止と叫んでも、人々は、ポカンとして、あまり興味を示しません。 「 人は国を作る。 そして、教育は人を作る。」と言って、本当は、この国とって一番大切な事なんだけど。 それで、今度は、“医療の無料化”から始めます。 前に書いた様に、医療は、国民一人ひとり、皆に関係する事だからです。 特に、中高年の人は、感心を持っております。 「国民皆保険の 大ウソ」から、始めます。叫んで歩く。 まずは、みんなが、感心あることを使って “カキ乱す”んです。そうして置いて、その上に、入試廃止を振り掛けて行こうと考えております。

    以前、 ある人から、「文ソクさん、 雪掻きをして進んで行くのも、 先頭になって歩く人が一番大変なんです。しんどいんです。 後に続く者は、楽なんです。 アンタが一番大変なんです。」と、言われた事が有りました。私は、過去、10年間この運動をやって来て、しんどいとか、大変だとか、 感じた事は一度も有りませんでした。 ただ、 しかし、 この10年間、 とにかく 失望と落胆の連続だった。 特に、あの、二年前の市会議員の選挙の後は、頭がボーっとして、何をやって良いか分からず、放心状態だった。 選挙は、私にとっては、入試廃止運動を展開していく上での 一つの道しるべでありました。「よし、次は、あの選挙が有る。 あれを目標にして。。。 」と、毎日、自転車を押して町に出て行って おりました。 第一回目の市会議員選挙は、六年前に有りました。その時は、1,400票獲得しました。そして、その後、衆議員選挙が有りました。マスコミは、その時、私の事を“手作り選挙”と評して いました、 が、しかし、 「ワシのこそ、ほんまの選挙」だった。  たった一人 我一人、  自分の主義主張を訴えて選挙に出る。 何の利益グループも、団体も付けず、一人で選挙に打って出る。「これこそ、ほんまの民主主義の選挙」だった。 そして、二年前に、第二回目の市会議員選挙が有りました。 しかし、得票数は、800票余りしか有りませんでした。 今回は、立候補者が多かったとは言え、、、 あれだけやって、あれだけ年月を掛けて、、、 これだけ時間とエネルギーを費やして、 ----- “性も根も尽きる”とは あの時の事で、 私は、選挙の後、 海辺に行って 砂浜に寝そべって、体を休めておりました。春の日差しのもと、そよ風の中、 私は、昔の侍が事に臨んで、成就しても失敗しても、“腹を切って死んだ”、 その意味が 分かる気がしました。 “決死”とか“必死”とか言います。 それは、「必ず死ぬ」と言う事です。 人間、事に臨んで、全力で行い 燃焼し尽くせば、ああいう風になります。

    転機が訪れたのは、昨年の暮れ、カリフォルニアへ行った時でありました。私は、ロサンゼルスで、あるキリスト教の牧師と知り合いになりました。その人は、アフリカ人で、 うっそうとした 深い森の奥地から、 今にも出て来たと言う雰囲気で、バイブルの上に片手を置き、目を見開いて、低い声で ゆっくりと、 聖書を反復し没頭して行く姿は、正に神秘的で、異次元のムードを香持ち出しておりました。 そして、その牧師から、

「 文ソク、 お前は、神によって選ばれた。
You are chosen by God. 」


と言われた時だった。 私の心の中に、忘れていた何かを呼び起こす一言でありました。

「 。。文ソク さん。 攻撃は反復しなければ 成りません。 効果が有りません。
   第二次攻撃隊をだしましょう。  -----


よし、、、 合い分かった。