チェンジ JAPAN
新しい 日本 作ろう
[ 写 真 ] 「 文ソクさん、 エエ気分じゃの。。。」
----- そうョ、 今日は、ハロウイン なんじゃ。 無礼講なんじゃ。 一年の内で、今日だけは、何をやっても エエ んじゃ 。 みんなで はめを外すんじゃ。。。
アメリカでは、10月の下旬になると、ハローウイン と言う祭りが開かれる。この時は、みんなお思い思いに仮装して 一日を楽しむ。子供たちは、バットマンやスーパーマン、時には 骸骨に扮して マント をひるがえし 家々を回る。 そして、玄関先で、
「 Trick or treat( トリック ・ オア ・ トリート ・・・ ( 魔法 か又は お菓子 ) 」
と言って、みんなで合唱する。つまり、「 お菓子を くれなければ 魔法にかけるぞ」と言う訳である。すると、そこの家の人が出て来て、子供達に 用意していたCandy( キャンデー : チョコレイト 等の お菓子。 あめ玉は、hard candy ハード : (硬い)・キャンデー と言う ) を子供たちに分け与える。日が落ちて、夕食が済んだ後は、今度は、大人達が、思い思いに 仮装して ホーム・パーテー に集まってくる。
文ソクの となりに居るのは 文ソクの親友、 ニューヨークの“ お福 ”さん。 とにかく、彼女は、面白い。 文ソクの最悪の日でも、彼女と居たら、キャッキャと 言って 笑い転げる様な そんな女性です。 そして、何よりも 料理が上手い。 彼女は言う:
『 Life is Too Short( ライフ ・ イス ・ トウ ・ ショート : 人生は、短すぎる ) なんです。 しょんぼり したり、 悩んだり、、、
泣いたり ワメいたり。。。 ・・・ そんな事に、、、
この大事な 「 人生の 短い時間 」 を費やす事は、出来ないのョ。 Too Short なんです。 みんなで、笑い転げながら、人生を、生きて行くんですョ~ 。。 』 ----- お福さんが正しい。
彼女は、知恵遅れの子供の施設で働いている。ニューヨークから ボストンに掛けてのこの地域の知恵遅れの子供たちを ケアし、教育をつけている施設です。 例えば、食事の仕方を教えるとか、自分の感情を人に上手く伝える 方法を教えるとか、そう言う事をやっている。 一般家庭では、そういう教育は なかなか出来ないから、ここで、子供たちを預かる訳です。 そして、大学で、専門の教育とトレーニングを受けた人達が、その教育に当たっています。 知恵遅れと 言っても色々なレベルが有る訳で、 その中には、重度の子供も居る訳です。そんな子供達でも、たまにしか行かない文ソクを覚えていてくれて、私が行くと、両手を挙げて、感情を表現してくれます。
この子供達も 定期的に 週末などに 親元に返されます。 広い地域だから、何時間も掛けてドライブして 親元に連れて帰る訳です。 その時は、重度の子供でも、自動車を出発させて高速道路を走って行き しばらくすると、その子供の表情がだんだん変わってくる。 その時に、 「 アッ、 分かるんだ。 家に帰る と 言うのが 分かるんだ。 お父さん お母さん に 会える と 言うのが 分かるんだ。」と言った事が有りました。 すると、彼女が、「 そうなのよ。 分かるのよ。 一見 何も分からない、何も理解できない様に見える この重度の子供達でも、家に帰えれる、お父さんお母さんに会える というのが分かるのよ。」 ----- 私は、その時、何か人間の “ 生物として ” と言うか、 生命体と言うか、 その本質に触れた様な、そんな気がしました。
このホームーページを読んでおられる人の中に、中学生や高校生がおられたら、是非一度、そう言う施設を訪れて、子供達に接してみて下さい。 得る所が多いと、 私は、思う。 飛行機をやって、コンピュータをつついていたい ぶっきら棒な 私でさえ、そんな事を思うのだから、感受性の強い若者達なら、もっと 得る所が有るだろうと思います。
[ 写 真 ]
黒い尼の格好をした女性は、小学校の先生。 となりの白の女性は、アーチスト。 名前は、デニースと言う。 彼女は、文ソクの事を“ バ ・ ブン ~”と呼んでいた。 バを、 ずー と伸ばす。 そして、“ 文 ” を付ける。 すると、面白 おかしくなる。 彼女の スペイン語なまり の発音で“ バ ~・ ブン~ ” と呼ばれると、回りの者が みんな 大笑いだった。 こんな風にして、ニューヨークでは、老いも 若きも ハローウインを楽しむ訳です。
注 意:
ざ つ だ ん
[ 概 要 ]
このページには、私の心に浮かび上がってくる事、楽しかった事、傑作だった事など、書き足して行こうか と考えています。 たとえば、
文ソクは、オートバイ・ライダーだった: 日本に居た頃、高校生の頃から 散々にオートバイを乗り回しました。 アメリカへ行っても、オートバイに乗った。 学生の時分で、中古のオートバイを修理して、それに乗っていた。 荷台にリュックと工具を縛り付けて、寝袋を持って、野宿しながらの冒険旅行だった。 そんな事も、行く行くは、ここに書き足して行こうかと思っている。
ニューヨークで先生をやっていた頃は、成績の悪い学生は、呼びつけて、ゲンコツをかませる事も有りった。 新入生のクラスは、時には、17才ぐらいの学生もいた。 ある時、イタリアの子せがれ ( ニューヨークのイタリア系ティーン:アメリカ人)を呼びつけて、「 このままじゃ、 お前は落第じゃ。。。 」と気合を入れてやった。 そしたら、その若いアントニオ・猪木が、顔を引きつらせ、ムンズと立ち上がって
「 ワシの叔父さんは、“マフィヤ”じゃ、、、 落第にしてミイ、 お前なんか、明日、ハドソン川にポッカリ浮かぶんじゃ。。。 」
( ハドソン川と言うのは、ニューヨーク市内を流れる川、そして、マフィヤとは、アメリカの名うてのイタリヤ系ギャング組織である。) ワシは、すかさず、
「 なんじゃ、、、 オドレー ワシを誰じゃ 思う取るんなら~
ワシは、サムライじゃ。 来るんなら、来てミイ。。。 この クソッたれーー
刀で、一刀両断じゃー 真っ二つに しゃーげたる。 」 出て行けーー 、、、 このクソタレー 。。。
と、そのアントニオ・猪木を 蹴っつり 出してやった。 そしたら、週末になって、そいつが 来たんョ。。。 うん、 うん。。。 金曜日の夜、12PMを越したころ、ワシのオフィースへ、やって来た。 ( 文ソクは、あの頃は、昼に大学へ行って、午後 学生の面倒を見ていた。そして、夜、自分の事をやっていた。) ハット 気が付いたら、そのアントニオ・猪木が、ドアーの向こうに仁王立ちになって、目をギラギラさせて、腕を まくり上げて ワシを にらみ付けている でわないか。
『 クソ~~、、、 きゃがった。。。 』 画して、 ブンソク・中村 対 アントニオ・猪木 の 深夜のプロレス・バトルが ワシのオフィースで始まった。 あれも傑作だった。 そんな事も有った。
ある時、ジャマイカから来た学生が居た。 あの世界一速い ウサイン・ボルト の様な感じの学生で、それが、ワシのオフィースにやって来て、机に もたれ掛かって、グローブの様な大きな手で、顔から頭にかけてスッポリ包み込んで、机にひれ伏して ワンワンと泣き出した事が有った。 『 困ったョ、、、あの時は ワシも。 』 多事多笑のニューヨークだった。
ニューヨークでは、2,000人の若者に授業を付けた。 その内、1,000人は、ユダヤ人の若者だった。 世界金融を操り、世界の経済を動かして行くニューヨークのユダヤ人達。そして、私の前に居たのは、その子供達、若者だった。 その彼らを、 一人 ひとり側(そば)に座らせて、『 やってみい。。。 』と言って “手取り足取り” コンピューターを教えた。 その経験からすると、日本の企業が、ニューヨークで、ユダヤに 手玉に取られるは、当然の事の様に思える。 『 そりゃ~、、、やられる わい。。。 』と、ワシは思う。 そんな事も、此処には、付け加えながら書いて行こうかと思っている。 ------
1. “それ” は、何を指すか:
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[解説] 高校の国語のテストには、必ずと言って良いほど、“それは 何を指すか”と言う問説が出て来ます。文ソクは、自分が高校生の頃から、この問説に大きな疑問を抱いて来ました。 そして、アメリカへ行って 英文学の教授から、英語の文章の書き方を習っている時に感じた 衝撃的な事に付いて ここに書きます。 ここに書く事によって、少しでも、日本の国語教育の前進に寄与できればと思います。 ------
アメリカへ初めていった頃、大学で、英語の書き方を練習するクラスに参加しました。 そのクラスは、個人レッスンの形式を取っていました。 クラスとは 言っても、大学へ正規の手続きをして と言うのではなく、大学が非公式に提供しているクラスでした。 文ソクの担当になった先生は、退官された英文学の教授だった。 週 何回か、大学に来られて、英語の書けない若者達の為にレッスンをして下さっていた。 そして、文ソクは、その教授から 英語の書き方の基本、“いろは”を、 マン・ツウ・マン で 個人レッスンを受けた訳です。 ありがたい事で、しかも、それは無料だった。 (広島市内には、県立大学や市立大学が有り、近郊には、国立の広島大学が有るけれど、 日本語の文章が書けない若者の為にと言って、こんな事をやるだろうか。)
その先生が言われるには、『英語の書き方には、上限が無いんだ。 どのレベルの人でも、やればやるほど上達するんだ。』と言う事でした。それが、印象に残っています。
文ソクに与えられた課題は、「 原稿用紙二枚に、一行書く毎に 二行スペースを空けて、何でも良いから英語の文章にして 書いて来なさい。 例えば、昨日、自分がやった事とか、これからの事、料理の事、家族の事、 等、 何でも良いから 二ページほど 書いて来なさい。 」と言う物でした。それまでは、英語の文章と言ったら、例えば、「富士山は、日本一高い山です。」と言う日本語を、英語の単文に なおす ぐらいで、 ひと綴りの文章にして書くと言うのは ほとんど経験が有りませんでした。 レッスンは、一回30分ほどで、週二回行われました。
そんな ある日、文ソクは、今、自分が勉強している事に付いて、二 ページの文章にして書いて行きました。 その中で、文ソクは、次のように書きました:
「 私は、昨日、図書館へ勉強しに行きました。それは、大切な事だった。 」
これは、日本語としては、何の問題も無い文です。ところが、その先生が見られた時、直に指摘されました。
「 この“それ”は、何を指しているんだ。
昨日だった事が大切だったのか、
図書館へ行った事が大切だったのか、
それとも、
勉強した事が大切だったのか。どちらとも取れる。
意味が不明である。 こんな文章を書いてはいけない。
勉強した事が大切だったのなら、その様に はっきりと 書き直しなさい。」と言われました。その時、文ソクは、ハットなって 体中に電撃が走りました。それは、、、 次の様な事が有ったからです。
高校生の頃、“国語の時間”が有りました。そして、テストが有り、そのテスト中で、「 次ぎの本文を読んで、問設に答えよ。: 1の“それ”は何を指すか? 2の“それ”は何を指すか? 。。。 」と、“それは何を指すか?” と言う問設が 四問有りました。 テストが終わって 二日ほどして、 返って来た 文ソクの答案は、四問とも全部 間違っておりました。 しかし、どの様に本文を読み返しても、文ソクには、「 自分の回答の方が正しい」としか思えなかった。 そこで、文ソクは、教員室へ言って、先生に訊き正しました。 「 何で 間違う とるん ですか? いくら本文を読んでも、ワシには、こう としか、受け取れません。」と言った。 そしたら、その先生は、「 作者は、そうは言うと らん。」と、ぶっきら棒に言った。 文ソクは ムッ と成って、「 先生は、作者でもないのに 何が わかるですか。 作者は、ヒョッ としたら,ワシが思う様に、 思っていたかも 知れん じゃないですか。 もし、そうなら、“文ソクが正しくて、ほかの者が、皆、間違う とる” と言う事 に なるじゃ ないか。」と反論した。 続けて、文ソクは、「 ワシが読んで、生徒が読んで“感じた事”が 間違いなんですか。」 さらに、続けて、 「 ワシは、あの レオナルド・ダビンチ の モナリサの微笑 を見ても、“屁”とも思わん。 あんな 暗い絵が、 あの古ぼけた絵が どこが えんじゃ。。。 ワシなら、あんな絵は、ゴミ箱に捨ててしまう。 そして、 そう思う ワシの心は、間違いなんですか。 生徒が読んで感じた事が、間違いなんですか。 ワシの方が正しい。」と言い張った。 もちろん先生は、無視した。 それから、暫らくして、後日、又、国語のテストが有りました。 そして、同じ様に “それは、何を指すか” と言う問設に出くわした時、 今度は、文ソクとしては、答えの書き様がなかった。 そして、「どの様に 答えを書こうか。」と思案した末、最後に、「 これじゃ。」と言う 素晴らしい回答を見つけ出した。そして、答案に 「 それは、それを指す。」と書いた。 そしたら、教員室へ ふたたび 呼び出されて「 真面目にやれ。」と 言われた。 文ソクは、もちろん、反発して、「 何を言う。 “それは、それを指す。” 立派な答えである。何も間違っていない。」と 主張した。 そして、「 ワシは、間違うと らん。」と、さわいだ。 文ソク、16才の初夏の頃だった。
そんな事が、 昔、 有りました。だから、あの英文学の教授に「 この“それ”は、なにを指しているのか 分からない。 どちらとも取れる。 意味不明である。 こんな文章を書いてはいけない。 書き直せ。」と言われた時は、体中に電撃が走った訳です。 レッスンが終わった後、入り口(玄関)に続く広いホールを通って、その赤レンガ作りの 歴史を感じさせる校舎から 外へ出て行きました。 そして、大理石の階段を下りて行き、きれいに刈り取られた 校庭の 緑の芝生の 間に立った時、文ソクは、青空に向って、両の こぶしを振り上げて、 「見てミイ。。。 ワシの方が正しい。 ワシの方が正しいんじゃ。 」と叫んだ。 その事を、今でも 良く覚えております。
「 生徒が読んで感じた事が 間違いである。 ----- 」 こんなバカな問設が何処に有る。
「 作者でもないのに、何が分かるんじゃ。 」
あの時は、血が、逆流しました。そして、「 ああ、、、ワシを受け入れてくれる世界が有った。」と心を震わせた。
あの頃は、まだ、日常英会話も ママ成らぬ頃でした。その 外国人の私に、アメリカの大学は、英語の文章の書き方の基本を教えてくれました。しかも、それは、英語学の教授によって、マン・ツウ・マンの個人レッスンだった。 この ホームページで、 時折り、 『アメリカの大学では、手を差し伸べてくれた、導いてくれた。。。 』 と書くけども、それは、この事を言っている訳です。
卒業式の頃になると、時折り、テレビで、大学の学長の演説を放映する事が有ります。その内容は、“それ” “あれ” “これ”と、、、 そんな指示語が、ふんだんに織り混ぜられて、「何を言っているのか、 さっぱり 分らない」と言う事が しばしば有ります。 ( ヒョット したら、喋っている当の本人も、良く分かって いないのかも知れない。 アハハ。 ) 後になって、新聞を読んで、ゆっくり しっかり読んで、「 アア、こんな事を言っていたのか。 大体 そうか。 」と それくらい にしか分からない事があります。
これに比べて、アメリカの演説は、始めから終わりまで、はしから 端まで、清んだ秋晴れの如く ピッシリ分かる。 そして、素晴らしい演説が多い。 特に、アフリカ系アメリカ人(昔は、黒人と言っておりました。)の人達のする演説は、彼ら独特の抑揚のある黒人弁を使いながら、聞いている民衆を 魅了し、ぐいぐいと 引き付けて行きます。そして、時には、その演説が、 一時間から 二時間に及ぶ事が 有ります。 台本も無しに、力強く、ひたいに汗して とうとう と語って行きます。 例えば、あのオバマ大統領が 初めて 大統領選挙に出馬された時の “ Yes, We Can. ” の スピーチです。 あの演説は、素晴らしかった。あの時は、彼の演説を収録した CDが 日本で 発売された ほどだった。 文ソクも、これから先、入試廃止運動を追行していく上で、この演説こそが、大きな武器であります。そして、この演説に、もっと留意し 力を注いで行こうと考えております。 -----
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