H O M E

 

       私 の 事


[写真]   イリノイにいた頃の写真。 この頃は、体か小さかった。体重が57kg程しかなかった。背も低かった。 子供の様に見られた。それで、口ひげを生やしてみた。 それでもまだ高校生の様に 見られた。

    航空学部の学生( 飛行機やろう )達からは、「 お前は、米ばっかり食うとるから、米の様に細いんじゃ。(外米は細い)   肉を 食え、肉を。。。  此処は、アメリカなんじゃ。  ワシ等がやる様に 文ソクも やるんじゃ。」言われた。   肉を食えと言うから、「良し」と言って、“すき焼き”( 又は、らしきもの。 初めて自分で作った。 ) そして、みんなを呼んで食わせたら、「旨い うまい」と言って、評判になり、「 ワシらは、食うとらんぞ」と言って、第二弾を作ったことも有った。 イリノイは、 何をやっても 面白かった。 -----

私 の 事:

[解説]   このページには、私自身の事を書きました。渡米したときに状況から、広島市内で入試廃止運動をやり始めた時の事、そして、平成9年夏に行われた衆議院選挙に立候補した時の模様を書きました。 閉塞感の漂う日本の社会の中で、若者達に「こんな人がいるんか。」と少しでも刺激になればと思いここに記すことにしました。  前回、作ったホームページに載せた“ 私の事”を、そのまま ここに載せる事にしました。  ------



    読者の皆様、こんにちは。中村 文則です。私の広島市内での活動について、少し話させて下さい

    私が一人で始めた入試廃止・人間教育の運動は、やっと小さな明かりが灯った様に感じます。市内を自転車を押して歩いていると、「ガンバりんさい」とか、手を振って下さる人に出くわす様になりました。やっとここまで来た感じです。あせらず、たゆまず、これからも運動を続けていきます。

    私が渡米を思うようになったのは、修道大学に入学したころです。入学式の後、私は校庭の桜の木下の芝の上に寝そべって、満開の桜越しに青空を見ておりました。そして、「よし、アメリカへ行こう。」と心に決めました。そのころは、変動相場制が導入される以前のことで、1ドルが360円、そして大卒の初任給が5万円6万円の時代でした。ハワイ旅行と言うのは、芸能人しかも勝新太郎・石原裕次郎の世界の出来事で、渡米など、ましてや留学など金銭的に庶民にはとうてい考えられない事でした。

    私は、資金作りの為にアルバイトに奔走しました。工事現場で働きました。ドカチンをやりました。 「アメリカへ行ってみたい」と思う、その一心。大学を卒業したからも一年間、工事現場で、朝から夕方そして夜中まで、働きに働きました。そうして貯めた金をポッケトにねじ込んで、ジーパンと歯ぶらしをリュックに詰め込み、辞書を片手に海を渡って行きました。  広島を離れる時、父と母が駅まで出て見送ってくれました。父は最後に、「男児 志を立て郷関を出ず。学もし成らずんば死すとも帰らず。」の言葉をたむけてくれ、母と別れを交わして、私は新幹線に乗り込みました。  座席に着いて目を閉じると、今までの事が次々と心によみがえって来ました。あの夜、あの工事現場で「 クソーーー、必ず、必ず。。。 」と自分に言い聞かせながらハンマーを振り下ろしていた時の事や、つらかった事、苦しかった事、その一つ一つが私の心の中によみがえって来ました。そして「あすは、いよいよ海を渡る。アメリカへ行く。。。 」 涙があふれ出て、ホホをつたって流れ落ちて行きました。

    翌日、私を乗せた飛行機は、サンフランシスコを経由してアメリカ大陸のど真ん中、イリノイに舞い降りて行きました。飛行機を出て、タラップを降りて、そして踏みしめたその大地は。。。 大平原の真っただ中。目の前には、どこまでも続くコーンフィールドと見渡す限りの大豆畑が広がっておりました。まわりは全てアメリカ人、言葉の通じぬ世界。それから先は何もかも、一分一秒が新しい体験、新しい出来事だった。それはまさに不思議の国のアリス。私の行ったアメリカは、まったく別世界でありました。

    年月が経ち、30代のころになると、私は大学で教鞭をとっておりました。 ニューヨークの大学で授業をやりながら、「 この すばらしいアメリカの大学教育が 日本にあったら、日本はどんなに豊かな国になるだろう。」と思いました。そして、いつか日本に帰って運動を始めよう。子供達の為に、みんなの為にやってやろうと考えるようになりました。

   あの自転車(ペダル無し、押し車)を作ったのは、10年余り前の事です。自転車にスピーカーを取り付けて旗を付けて歩くなど、誰もやったことのない事で、電気屋さんに言うと、「 自転車にスピーカーを取り付ける? 聞いたことが無い。」と言われました。 私は、見取り図を書いて自転車を鉄工所に持っていき、取り付け金具を作ってもらいました。初めは、溶接部分が折れたり曲がったりしました。何回も作り直しました、旗も、初めはうまく回転せず、風が吹くとヨットのようになり、2時間ほど押すと疲れて体がガタガタになるほどでした。橋のたもとで、突風に吹かれて自転車もろともひっくり返り、腕が折れそうになったこともありました。  そのころは、私が、「 今日は。。。 」と挨拶しても、人々は、顔をそむけて通り過ぎて行くだけでした。 「 国立大入試廃止運動」と書いた大きな旗を見て、過激派と思ったのです。 私は、一日中録音テープを流しながら市内を回って人々に訴えました。 夕方、日が暮れて家に帰りながら、夜空を見上げて。。。星を見つめながら、

「くそったれーーー。 」と、叫んだ事が何度もありました。
「何でジャ、、、 何で わかってくれんノンじゃ。」

夜、寝床に入って布団のなかで、私は、昔、ニューヨークで授業をやっていた時の事を思い浮かべました。 「 何とか、この大学教育を日本に持ち帰りたい。子供達の為に、みんなの為にやってやりたい。」と、思ったあの時の事を思い浮かべて、 「 よし、明日も出て行くぞ。」と、自分に言い聞かせる日々でありました。

    月日が流れ、さすがに、顔をそむける人も無くなり、又、警察に止められて、職務質問をされる事も無くなりました。 しかしながら、やっても、やってもだった。 SOGOの前に立って、チラシを配った事も有りました。しかしながら、一時間やって、たった四枚しか配れなっかた。  市内に出て、「 入試を廃止して、子供達を子供として育ててやる。 そして、大学に入ったら、今度は一生懸命勉強する。そう言う制度に変えて行かんと いけんのです。 国立大学は、税金で作っとるんですから、庶民の為の庶民の教育の場にしないと いけんのです。 アメリカの様に、開かれた大学にしないと いけない。」と訴えました。しかし、反応はありませんでした。やっても、やっても。それは、あたかも羊の群れを相手にしている様で、何を言っても、どんなに訴えてもまったく反応無し。 「 何とかこの国にアメリカの大学教育を持ち帰って、種を植え付けたい、芽をふきださせたい、」と思う私の気持ちは、ただ空を切るだけでした。
そんな私を見て、兄たちは、 「 発想がまさにティーネイジアー。 ティーネイジアーの夢物語。」と呼び、又、ある若者は、「 童貞瞑想政治」と、名付けました。

    昨年の選挙(2009年8月 衆院選)は、暑かった。私は、南区は青崎から向洋、そして東区は温品から福田まで自転車を押して回りました。  人々に訴えつづけました。 「 誰かがやり始めんといけんのです。物事は、何でも、やり始める者がおらんと始まらんのです。」と言い、又、 「 立候補に掛かる300万円の供託金は、没収される。これでは、一般の人は選挙に出られない。明治憲法と変わらん。民主主義じゃない。 縄張りを張って、一般の人が出てこれん様にしとるんです。昔の貴族が政治をやっとるんといしょです。」と訴えました。 しかし、結果は散々だった。私に投票したのは100人中たった1人。 それは、ショックでした。道行く人から、 「 中村さん、あんたのやっとる事は、この国には100年早いんです。 自ら制度を変えて行くと言う、そういう国民じゃないんです。この国の民主主義は、アメリカさんからいただいた民主主義です。アメリカさんからもろうたんです。 市民が決起して、血を流して勝ち得た民主主義じゃないんです。」と言われました。  アメリカから、電話が掛かってきて「何で、お前はそれほどまでにエネルギーを燃やし、情熱を傾けるんじゃ。誰も気にしていない。。。 もう十分ではないのか。」と言われました。

「 ティーネイジャーの夢物語 」  言わば言え。

子供達の為に、みんなの為に、思う一念











政治活動を始めた動機は何か


    初めてアメリカへ行ったころ、最初の週末日曜日に、私は知人に連れられてマクドナルドへ行きました。 ハンバーガーを注文しようとした時、店員の女子が何を言っているのかさっぱり解らなっかた。 そこから初めて、30代のころになると大学で授業をやっておりました。私は、修道大学の卒業生、地方文化系三流大学とレッテルを貼られる修道大学です。その私が、数学部でコンピュータサイエンスを教えておりました。 どうしてそんな事になったかといえば、それはひとえにアメリカの教育制度があったからです。 教科書は、日本の教科書とはまったく違っておりました。一人で読んで良くわかるように書いてありました。 わかるように、わかるように書いてありました。そして、どの教科でも、図書館に行けば、自分のレベルの本が、本棚にずらっと並んで おりました。 先生に質問に行けば、懇切丁寧に教えてくれました。手を差し伸べてくれました。導いてくれた。 ある教授が私に 「 我々は、生徒に奉仕する為にここにいるんだ。」と言われた。その教授は、工学の彼の分野では世界的権威の先生でした。その第一人者が、生徒に奉仕する為に大学にいるんだと言われた。それが強く心に残っています。それがアメリカの教育です。  ある時、日本から理学の先生が来られました。その先生が 「 アメリカの教科書はバカ丁寧に書いてある。 日本なら2行3行で終わる所を、20行にも30行にもわたって書いてある。」と言われました。 ( だから良くわかるんです。) 又、 「 日本では、バカはほっとくんです。バカな学生は適当に単位をやって卒業させるんです。我々は、出来る学生しか相手にしないんです。」と言われた。

    私は、3階にあった自分のオフィースから校庭を見下ろしながらよく思いました。 もし、このアメリカの教育制度が日本にあったなら、日本はどんな豊かな国になるだろうと思いました。  日本に帰って来ると、コンビニで若者達が働いております。あの若者達は、5年経ても10年経っても低賃金の下働き。アメリカであれば、みんな大学へ行く事が出来ます。どんな貧乏な学生でも教育が受けられる制度が整っているからです。そして、導いてくれます。 2年制の短期大学を卒業すれば職が待っております。 さらにもう2年 学業を重ねて 4年制の大卒資格をとれば、より高いレベルの職が待っております。 それを目標にして、明日へ向かって、希望を持って生きて行く事が出来ます。頑張る事が出来る。アメリカであればなあ。。。 とよく思いました。何とかして やりたかった。 いろいろな面で、開かれた大学、庶民のための庶民の教育の場にしてやりたかった。 -------