チェンジ JAPAN
[ 写 真 ] ニューヨークで先生をやり始めて、 暫(しば)らくして、 ニューヨークから 南イリノイ大学の航空学部へ、昔、お世話になった先生方に あいさつに行きました。 その時の、写真です。エンジンが、左右の翼の下に 二つ づつ、 合計 四つ付いた飛行機のコクピット( 操縦室 )で撮った写真です。 アメリカには、航空学の拠点が、三つ有るそうです。 一つは、カリフォルニア 一つがフロリダ、 そして、もう一つが 此処(ここ) イリノイだと 先生が言っておられた。 私が居た頃、東海岸の当たり からも 学生が来ておりました。 彼らは 皆、子供の頃から、飛行機に乗っていたとか、そんな感じの 連中ばかりだった。 先生も含めて、とにかく 「 飛行機やろう 」 の 溜り場だった。
ある時、友達が、「 文ソク、飛行機とは、どんな物か 教えてやるから、乗れ。」と言うから、「 よっしゃ、分かった。」と、 ほんの 軽い気持ちで 文ソクは、その小型機に乗った。 暫らくして、彼が乗って来て、コクピット( 操縦席 )に着いて、「 よっしゃ、行こう 」と言って、 その 文ソクを乗せた 飛行機は、離陸して行った。 そして、水平飛行から、右に旋回したり、左に旋回したり、はたまた、上昇したり、急降下したり した。 急降下の時は、エレベータの底が抜けて 下に向って 一直線に落ちる様な感じで 思わず、「 アッーー、、、アッーー」と、声が出てしまった。 そんな事が続いて、暫らくして、水平飛行に返った時、 文ソクは、息も絶え絶えに「 ハア。。。 ハア、、、 もう、 もう ヨウ 分かった。 十分に 分かった。」と、彼の方を見た。 そしたら、その文ソクの友達は、 ニタリ ニタリ しながら 文ソクの方を見返して、「 エエか、、、文ソク、 本番の準備はエエか?」と きいてくる。 こっちは、 もう、、、口を尖らせて、「 本番?? エッ、エッ、エッ??? 」としか声が出なかった。 「 よっしゃ、、、行くぞ。」言った とたん、 もう、、、 “ ジェト・コースター ” なんかは、への屁。 子供だまし だった。 絶叫マシン だった。 とにかく、上を向いているのか、下を向いているのか、はたまた ひっくり返っているのか。。。 さっぱり感覚が分からず、目が ぐるぐる回る とは、この事だった。 飛行機が、地面に向って 真っ逆さまに飛んでいても まったく 分からなかった。 ----- やがて 飛行機が、滑走路に降りて来て、誘導路から格納庫の前まで来てエンジンが止まった時、 文ソクは、口から泡を吹いて 腰を抜かして、「アアとかウウ」としか、声が出なかった。 そんな 文ソクを見て、友達は、笑いながら、「 今日のは、序の口よ。」 アハハ。。。 だった。 そんな事も、ここでは、有った。
写真の中央に写っている 横に四つ並び 合計で 二十有る計器群は、 飛行機のエンジンが、どれだけ力を出して 飛行機を引っ張っているかを示す計器です。 文ソクの 両ひざの 上の方に見える計器、即ち、パイロットの真正面に位置する計器は、 飛行機が、右に傾いているとか、左に傾いているとか、はたまた、ひっくり返っている とかを、適切に、パイロットに知らせる 計器 類 です。 パイロットが、たとえ、文ソクの様に 目を回したとしても、自分の 目の前に有る これらの計器を見れば、「 飛行機が ひっくり返っている」 と言う事が 直に分かり、適切に修正する事が出来ます。 人間の感覚と言うのは、不確かです。ところが、計器が目を回す 事は有りません。 パイロットは、自分の目の前に有る これらの計器を見て、正確な情報を得て、飛行機を操縦しています。 -----
[ 解 説 ] このページでは、文ソクが、意を決して、航空学部へ 学部長に会いに行った時の模様を書きました。クリイスマス・イブの午後、寒い日だった。私の人生を決定付けて行く出来事だった。
今は、新聞、テレビ、そしてインターネット等でアメリカの事は常に報道されるし、英語教育も盛んで、米国旅行も頻繁に行われています。アメリカと言っても、身近に有る訳です。我々の時は、今とは全然違っておりました。たとえば、紀伊国屋書店へ行って、留学に関する本を買おうとすると、たった5冊ほどしか有りませんでした。留学する者が居なかったからです。ハワイ旅行と言うのは 金持ちの道楽で、 ましてや、海外留学など、庶民には、経済的に とうてい 無理だった。そんな時代だった。 アメリカと言うのは、海の向こうの 遠い異国の地だった。その中での出来事です。 -----
入学許可事務所で、「英語の点数が達しないから航空学部には入学できない」と言われたのは、12月10日過ぎでした。それから、学部長に会いに言ったのは12月24日だから、その間10日ほど、モジモジして過ごして いた事になります。
あの頃は、まだ日常会話も “ママならぬ” 頃でした。 しかも、日本とは全く違う白人文化の中、そして不慣れな異国の慣習の中に 一人でポツンと居た訳です。 日本に居ても、学部長と言えば “雲の上の人” です。 その中で、アメリカの大学で、英語も満足に出来ない私が、青い目の学部長に会いに行くと言えば、これは もう「天皇陛下に直訴に行く」と、そんな気持ちだった。「文ソク行け、、文ソク行け。。」と何度も自分に言い聞かせるも、どうにも体が動かない。そのうちに、時間が経ち、日が過ぎて行きました。22日を過ぎ23日になって、いよいよ明日が最後。明日しか無いと言う時になった。その日の夜は、目が爛々(らん々)と輝いて一睡もする事は出来ませんでした。やがて、窓の外が白々として来て、24日の朝を向えました。「まずは腹ごしらえ」、私は、近くのスーパーから分厚いステーキを買って来てオーブンで焼き、その肉を無理やり胃袋の中にねじ込んで行きました。それでも体は動かぬ。時間が過ぎて行き、やがて正午を過ぎた頃、「もう時間が無い、後が無い。。。」 私は、 両方の手で、自分の足の 太もも を掴み、 一歩一歩、右の足の次は 左の足と、外に 止めていた 自転車の方へ 向って、 歩みを 進めて行きました。 ドアを開いて 外へ出て、 そして、自転車の横に立った時、 私は、両手で股間をグッと握り締め、歯を食いしばり、 そして、天を仰いだ。。。
「 クソー、、、 ワシは、日本男児。 文ソク行け。。。 」
でありました。画して、文ソクは 「 ワシは、日本男児。。。」を何度も口ずさみつつ、自分に言い聞かせながら、寒風の吹き付ける大平原の中へ自転車に乗入れて行きました。航空学部へと突き進んで行った。
[ 写 真 拡大可:] “ 見渡す限りの大平原 。。。 ” ] イリノイの州道。 アメリカには、インター・ステイトと言う高速道路が、全米に張り巡らされています。 その高速道路も、この様な感じです。アメリカ大陸の中央、ミシシッピ川が流れている当たりは、とにかく広い。 “ 行けども 行けども ” と言ったら、このことで、 まわりは、何処までも続く 見渡す限りの 平らな大地。 そこを 真っすぐに伸びた道が 一直線に 貫いている。 写真には、路肩に雪が少し残っている。 この向こう当たりで、道が一本分岐して、右手に向って 航空学部へと続いていた。 こんな所を、真冬に、小雪まじりの 寒風の中、自転車に “ 打ち またがって ” 行った訳です。 「 ワシは、日本男児。 文ソク行け。。。 」 ------
とにかくあの日は寒かった。-10度を下回る様な、そんな寒い日だった。イリノイ州のあの辺りは、コーンと大豆畑の広がる大平原。風が吹くと、粉雪が舞い上がり、体感温度がー50度にもなると言う、そんな寒さだった。両のほっぺは凍りつき、口ひげの周りにはツララが出来ると、、、そんな寒いクリスマス・イブの午後だった。 寒風に ビュービュー と吹き付けられながら、州道から分岐した一本道を、 航空学部へと 自転車を走らせて行きました。 学部に着き、自転車を止めて建物に入ると、中は がらんとして おりました。秘書意外、誰も居なかった。 みんな家に帰り、クリスマス・イブの準備をする訳です。 私は、秘書に、持ってきた書類を差し出して趣旨を説明しました。そして、「 学部長に会わせて下さい。」と頼んだのです。
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文ソクとしては、とにかく一教科でも良いから履修したかった。一学期たてば、英語も上達する。その時に、再度、英語検定試験を受けて正規の学生になろうと考えた訳です。 それを、まさか、入学を許可してくれるとは、、、 日本の常識から言って 全く考えられない事でした。頭の中に無かった。 しばらくして、奥の部屋から学部長が出て来られました。私の前に立たれた学部長は、エスキモーの防寒コートを着た私を見て、「自転車で来たのか?」と驚かれました。そして、「寒かったろう、コーヒー飲むか」と言われた時、“じん”となりました。日本の大学であれば、秘書の段階で笑われる。「顔を洗って出直して来い」と言われるはずです。
先生は、執務中で、「 ここで 少し待っていなさい。」と言われました。 暫(しば)らくして、学部長の部屋に通されました。先生は、私の書類を見ておられた。そして、先生のデスクの前に 座った 私に「 日本から来たのか、広島から来たのか。」と、やさしく微笑んで下さった。 私は、「 英語の点数が低いから 航空学部には入学出来ないと、 入学許可事務所で言われた事。」 又、「 来学期、一教科でも良いから、航空学部の授業に参加したい事」 等、片言の英語で、 思いをこめて 伝えました。先生は、じっと聞いておられました。そして、「 うん そうか、、、 良し 分かった。」と言われて、やおら ペンを取り、手紙を書いて下さった。そして、秘書がタイプした その手紙を渡されて、「 これを持って、入学許可事務所へ行きなさい。そして、来学期から来なさい。君は、本学部の正規の学生として認める。」と言われた。 私は、その時は、学部長が言って おられる事が はっきりとは、分かりませんでした。 “耳を疑う”とはこの事で。 私は、学部長にお礼を言って、先生の執務室を出て行きました。そして、秘書から、 航空学 について いろいろ 説明を 受け初めた時、初めて、正規の学生になったと言う事が 実感として 少しづつ、心の中に湧いて来ました。 途中、学部長が執務室から出てこられました。 そして、私に、「 正月の 冬休み中に、何か困った事が有れば、学部に電話してきなさい。」と言われた。 私は、その時は、宙に 浮かんでいる様な、そんな気持ちだった。 つい 今し方 まで、 寒風の中、「 文ソク 行け、文ソク 行け」と 自分を励(はげ)ましながら、自転車を進めていた 私には、突然 時空を超えて、どこか異次元の世界に踏み込んで行った様な、そんな おももち でありました。 “学問の道” への 扉が開かれた時だった。
学部長からの手紙を受け取って航空学部を後にした時、道すがら、何度も立ち止りました。 そして、 振り返って、 次第に小さくなって いく 航空学部の校舎を見つめながら、「こんな事が有るんか。」と 思いました。 信じられなかった。 今、自分に起っている事が信じられなかった。 そして、「 アメリカと言って、、、 なんと言う所か。」と思いました。 ただ、もう、言葉が出なかった。 その内に、「アメリカに来て良かった。 本当に良かった。」と言う気持ちが、心の奥底より 湧き 上がって来て、 体が熱くなって行きました。 私は、 しばし その場に立ち尽くし、 冬雲の隙間(すきま)から、 薄く 照らし 出された、 航空学部の校舎を見つめて おりました。 (その学部長とは、その時に会った だけでした。先生は、ブラジル政府の招待で、ブラジルの大学の航空学の整備のためにブラジルへ行かれた。私が学部にいた時、先生を見かける事は有りませんでした。)
翌日25日はクリスマスで休日。そして、その翌日26日の朝、私は、学部長からの手紙を携(たずさ)えて、赤れんが造りの古風な建物の中にあった入学許可事務所に行きました。係りの人(英語の点数が低いから、航空学部には入学できないと言った人。)に学部長からの手紙を見せると、「これは、私には判断出来ない。」と言って、奥にあった所長室へ行くように指示されました。その部屋は、赤じゅうたんが敷き詰められた、シックな感じの部屋だった。広い大きなオークデスクの向こうに座っていた所長は、淡いピンクのスーツに身を包んだ金髪の婦人だった。 「そこに座りなさい」 と言われ、私は、デスクの前に座りました。 所長は、私の書類をチェックした後、電話を掛け始め、 アチラ コチラに 電話を 掛けて おられる様子だった。そして、それが当分続きました。 最後に所長は電話置いて、無言のまま、私をじっと見ておられた。 そして、ひと言、「入学を許可する。」と言ってくれました。 画して文ソクは、英語の出来なかった文ソクは、いっきにハードルを飛び越えて、航空学部の正規の学生になって行った。
入学許可事務所を後にした私は、そのまま、キャンパス・ブック・ストア( 大学の構内に有る本屋 ) ヘ行って、新学期に履修する教科の教科書を購入し、自分の部屋に持ち帰りました。文則の“蘭(らん)学事始”であった。辞書を片手に教科書を読もうとする訳ですが、何しろ解らない。1ページ読むのに30分掛りました。それでも良く解らない。何しろ専門用語ばかりで、何が書いてあるのか良く解らなかった。 一心不乱とは、正にこの事で、毎日、朝起きてからベッドに付くまで、ノートを取り教科書を広げておりました。(別に何の苦痛も無かった。例えば、テレビゲームをやる人は、「やるな」と言ってもやる。興味があれば人はやる訳です。)
やがて、新年1月に入って、新学期が始まりました。文ソクは、教室の最前列の、先生の教壇のまん前に座り、目をパッチリ開いて、背筋をピンと伸ばし、真剣に授業に聞き入ました。しかし、先生が何を言っているのか さっぱり解らなかった。聞き取れ無かった。講義の途中、先生が言う and。。。 but。。。 therefore(それ故)。。。と、それぐらいしか聞き取れなかった。それで、授業が終わった後は、クラスメイトのノートを借りて図書室でコピーを作り、それを自分のノートに書き写すと言う、そんな作業をやっておりました。ところが、彼らの手書きの文章と言ったら、これが、又、読み難(にく)く、図書室に居る上級生達に教えてもらう事が多々有りました。そんな風にして、文ソクは、アメリカでの大学生活を始めて行きました。
――― 文ソクにとって、アメリカは別世界でありました。
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[ 写 真 拡大可:] 太平洋戦争が終わって、朝鮮戦争の頃、アメリカ空軍は、B36 と言う 爆撃機( 爆弾を、機体の胴体に積んで、空から、爆弾を落とす飛行機)を開発しました。 その飛行機に付いていたのが、この写真に写っているエンジンです。 28気筒のエンジンです。普通、我々が 使っている自動車は、4気筒のエンジンです。( 気筒と言うのは、エンジンの中の 鉄の 丸い筒で、自動車の場合は、直径が、コーヒー・カップぐらいの大きさです。 その筒の中に、ガソリンが吹き込まれ、点火されて、その力で タイヤが回り、自動車が動いています。 飛行機の場合は、プロペラへ伝えられる訳です。) 写真に見える、このエンジンの場合、気筒の大きさが、鍋ほど有ります。 それが、28コも付いている訳です。( 灰色に ぼこぼこ 見えるのが気筒) そして、B36 と言う その飛行機は、この巨大なエンジンが、片翼に 3つ づつ 合計 6発も 付いておりました。 だから、B36 と言うのは、 当時としては、ばけ物の様な 巨大な飛行機だった訳です。
この写真の教室は、飛行機のエンジンの構造を教える講義室です。50人ほどのクラスです。 私も、このクラスで勉強しました。 先生が、この28気筒のエンジンの構造を 講義された時は、 ほか の学生達が、 みんな 座ってノートを取っている時に、私だけは、先生の側へ行って、このエンジンの前で、先生が言われる事を 一字一句 逃すまいと、 真剣に なって聞いたのを、 今でも 良く 覚えています。 あの頃は、英語が上手く出来なかった。 私は、先生の許可を得て、教室の、先生の 講義デスクの上にテープ・レコーダーを置いて、先生の講義を録音させて頂きました。 そして、休憩時間には、それを聞いておりました。 通学のさいには、そのテープ・レコーダーを腰にぶら下げて、耳が隠れる程の大きなヘッドフォンをし、 テープを聞きながら 自転車に乗って大学へ通っておりました。( あの頃は、まだ、 ウォークマンは 有りませんでした。)
とにかく、あの寒かった クリスマス・イブ の学部長との出会いが劇的であった。そこから初めて、30代の頃になると、大学で、授業をやっておりました。
「文ソク、お前、一体 どおやって やったんじゃ。。 ドカチンやって金ためて アメリカへ行ったけど、、、英語が全然で出来んかったお前が、一体 どおやって やったんじゃ。」
と人に聞かれる事が有ります。そうです、「どおやって やったん」でしょうか? それは、ひとえに、アメリカの教育制度があったからです。“手を差し伸べてくれる、導いてくれる”、その制度が有ったからです。もし、私がアメリカへ行かず、広島に居たなら、私が大学の先生になることは無かった。ましてや、修道大学の卒業生の私が、数学や物理学協会の会員になる事は絶対にありませんでした。私は、自分に、私自身に、どの様な能力があるかと言う事を、そして、何が出来るかと言う事を 全く知る事なく、又、一度も試すことなく人生を終わっていたはずです。 この日本の国の中で、多くの人達が、自分の持って生まれた能力(天から授(さず)かった能力)を一度も試す事無く、又、自分自身で気付く事無く人生を終わって行きます。
私は思う、「もし、この国に、アメリカの大学教育の制度が有ったなら。。。」と、私は思う。
[ 写 真 拡大可:] ロドリゲス教授が、「 よしゃ、、、 文ソク、撮れ。。。」とウインクした時に写した写真。 教授の隣に有るのは、ジャンボ飛行機などに付いている ジェット・エンジンです。 飛行機は、機体は、ボーイング社などが作って いますが、エンジンは、別のエンジン専門の会社で作っています。 その代表的な会社が、GE(ジー・イー)と言う会社で、発明王、エジソン が 作った会社です。 日本で言うなら、三菱重工です。 自衛隊の戦闘機のエンジンも、GEで作っています。 文ソクは、ジェット・エンジンのクラスを取っていた時、教授から、「 GEで働きなさい。 GE が 大学院へ行かせてくれるから、大学院へ行って、本格的に、ジェット・エンジンをやりなさい。技師になりなさい。」と、言われました。 私は、地方 文化系 と言われる 修道大学の卒業生です。その私が、言ってみれば、三菱重工のジェット・エンジン製作部で働くと言う事で、日本では、到底考えられない事です。 「 ドカチンやって、カネ溜めて、、、」と人は言う けども、 言葉も 出来なかった私が、 右も 左も 全く 分からない アメリカ大陸のど真ん中へ 一人で ポツリ と降り立って、三年ほど経った頃だった。 日本では、アメリカン・ドリーム と 人々は言います。 それは、こう言う事を言っている訳です。 アメリカは、努力する者は、報(むく)われる 社会です。日本の国も、特に、若者に対して、「 努力すれば、必ず、それは実るんだ 」と言う そう言う社会を作って行かないと いけません。 そして、 “ 日本・ドリーム ” と言う言葉が ささやか れる様な、そんな社会を作らなければ いけません。
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